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市原幹也(演出家)、岸井大輔(劇作家)

◎街と演劇を考える

 北九州の枝光、横浜の黄金町など、街と出会い巡り会った人々とともに作品を作ってきた演出家の市原幹也さん。そして折々にその現場に立会ってきた劇作家の岸井大輔さん。岸井さんも、コミュニティと演劇の関係について、考えを巡らせながら作品を作り続けています。こうしたユニークな活動を展開しているお二人に話をうかがいました。そこからは、地域の演劇にまつわるさまざまな事柄がうかがい知れるとともに、これからの課題も垣間見えるのではないでしょうか 。(編集部)

−市原さんは昨年まで北九州の枝光におられて、その活動についてはワンダーランドでも何回か取り上げてきました(注)。今は横浜初音町の演劇センターFで「演劇パビリオン」という企画に携わっておられる(インタビュー当時。この企画は11月3日に終了)んですね。主宰されているのこされ劇場≡はどうなさってるんですか。

写真1市原:離れた人もいますが、劇団員は今、僕を含めて5人。後で触れますけど、劇場を運営して「えだみつ演劇フェスティバル」というものまでやってという、あんなスタイルの劇団はあんまりなかったと思うんです。それを全部捨てるというのを経験したメンバーが辿り着いたのが今の境地(笑)。
 だから、普通に公演やワークショップなどをやってますが、どうしても残したかったものだけが残ってる。もう本当に小さなシンプルなことだけ。演劇がほしい人のところまで、みんなでちっちゃく行く。アンパンマンみたいに「はい、どうぞ」と顔を差し出して「おいしかった」って言ってもらうってことを日々やってます。
 稽古は、北九州の市民センターや図書館などでやってます。だから、最近僕は飛行機にめちゃめちゃ乗ってる。費用は仕事をいっぱい入れればどうとでもなるし、何とかやってます。
 どうしても子どもやお母さんたちが気になるんです。劇団員がもう30代で実際子どもがいるのもいますしね。そして、立ち上げてからもう12年くらいたちますけど、今でも劇団は大事だと思っています。

−だんだん劇団が成立しなくなって、主宰の1人ユニットで客演を呼ぶという形が多いという流れには逆行してますね。

市原:その場合の劇団っていう定義が狭義なんじゃないですか。もっと広げられるでしょう。俳優とか制作以外に、面白い話をするとかおじちゃんと仲良くなれるとか、そういう担当がいてもいい。稽古に来て何もしないけど、終わった時にごはんを出してくれる人とかね。クリエーション集団を劇団と呼ぶのではない方がいい。
 今、劇団でバーベキューすると劇団員じゃない人たちが来る。でも、お客さんでもないんですよ。前にワークショップに参加した人とかね。で、「ちょっと俳優が一人足りないや」って言ったら、「あ、じゃあ、私、空いてるから」って来るとか(笑)。それくらいでいいじゃないかって思う。

岸井:演劇センターFでも俳優を募集してたよね。今、何人いるの? で、それはカンパニーなの。

市原:アソシエイトアーティストや公募俳優を含めると20人はいると思いますが、カンパニーとは言ってないです。でももう、どう見てもカンパニーなんです。彼らが自発的に何かをし始めたりする。料理とか飾りつけとか掃除とかが得意な人がいてくれるだけで、上演のクオリティーが上がっていくんです。

岸井:劇を見るのに、作品を見るっていうのもあるけど、集団のあり様を楽しむっていうこともありますよね。継続的に劇団を見ているからこそわかる、「あの役者、最近いいな」みたいな。ここの常連さんもそういう状態になってきたのかな。

市原:そうですね。仕組みがわかった上で楽しんでくれてる人も増えています。

−少し話が出た通り、市原さんは北九州では、枝光本町商店街アイアンシアターの芸術監督であり、えだみつ演劇フェスティバルなども精力的に進めてこられましたね。ところが昨年、芸術監督を解任されたと聞きました。岸井さんはそばでご覧になっていたとか。今日同席いただいたのは市原さんのご希望です。
 まず、アイアンシアターには2009年度から共同運営という形でかかわられたんですよね。2010年度に芸術監督になられて、のこされ劇場≡を含む3団体がレジデントカンパニーになりました。昨年5月には芸術監督制・レジデント制が廃止されて劇場を離れたそうですが、10月のえだみつ演劇フェスティバルには参加されてますよね。

市原:はい。フェスティバルに関しては、解任が通告された時点ですでに各所での協力を得て準備をしていたので、フェスティバルディレクターは希望通り継続させてもらえました。劇場運営とは別ということですね。

−その経緯を伺ってもいいですか。

市原:それは僕ひとりの目線からではなく、もう少し多様な目線というか体験に基づいて語られるべきだと思うんです。それで岸井さんに来ていただきました。
 劇場側から解任という話があったのは去年の2月末。4月から新しい体制にしたいから外れてくれと言われたのでびっくりしたんです。次年度の活動も始まっているので、今ブレーキかけても止まらない、どうにか緩やかなグラデーションをつけていなくなることができないかと考えたんだけど、それはなかなか難しかった。

−理由はどういう…。

 いくつか言われましたが、その中に街のみんなが困っているから、というのがありました。その「みんな」という言葉には疑問を感じたんです。それまでずっと、多くの人たちから支持され協力を得てやってきたのにと。不思議なことにすでに話を耳にしていた人もいて…。
 その後、のこされ劇場≡のレジデント存続のための運動をしようという動きがあり、お世話になった店主さんたちが集まって会議をされたみたいです。でも署名運動などは、地元の調和を乱すことになると取りやめになったそうです。でもそういう行為を見て嬉しく思い、僕たちが回復したというのはあります。

“アートと街づくり”を手探りで

−フェスティバルではどうでしたか。

市原:劇場が自由に使えなくなったことで実施不可能じゃないかとも思えました。どこを会場にしようとか、レジデンスの滞在型なのでどこを宿泊場所にしようとか、道具をどこに置こうとか。それを受け入れてくれた方々がいました。
 倉庫の代わりは紹介してもらった業者さんのコンテナを無料で貸してもらい、アーティストの宿泊地も団地の集会所が空いてるからと提供されました。主たる会場としては、枝光八幡宮という800年続く神社の境内を使用させていただくことができました。

写真2岸井:ここで改めて僕から、話しますね。重複もすると思いますが。まずかつての劇場の体制について。地元の会社が銀行の跡地にある建物を持っていて、何か有効に使えないか考えていた。一方で、北九州芸術劇場の中で活動していた市原くんののこされ劇場≡が、そろそろ自立してやっていこうと場所を探していて、両者が2009年に出会うわけですよ。その時点では、“アートと街づくり”が今のようにメジャーではなかった。だから、とりあえずやらしてみるか、と、軒下を貸したみたいな気持ちですね。それが意外にもデカくなっちゃって、運営体制をちゃんと検討しようというところまで短期間でなったときに、市原くんには辞めてもらったほうがいい、ということになった。

市原:率直に言うと、軒を貸してもらったけど、劇場事業における助成金は、のこされ劇場≡のメンバーが書類などを作成してきました。それでも全然足りない人件費や機材費は、劇団の民間企業・行政機関の事業などでの収益を充てていた、と僕は思ってるんですが…。

岸井:すごいことですが、会社がもっているお金もあるわけです。税金だけでもばかにならないし、光熱費とか。あそこにいろいろな劇団がいられたのは、あちらの好意でもあるわけです。地元の人からすれば、お金を引っ張ってきたって言い、全国から劇団が来るほど大きいイベントやるなら、家賃も払ったらということにだんだんなっていくでしょう。

市原:家賃については僕は払う意志は伝えてて、あるとき、固定資産税などを含めてかかる金額を尋ねたら「目玉が飛び出るよ!」と金額を伝えられたことがあります。それを受けて運営会議を開いた結果、まず劇場運営専任者を1人でも食える状況にすべきだと判断しました。そのため、芸術監督費よりも専任スタッフ費の方を先に昇給させていきました。

−毎月いくらくらいもらってたんですか。

市原:僕は基本的には4万円、専従の人たちは昇給・補強した結果、8万円×2人と4万円×1人でのシフト制になりました。

「みんな」とは誰なのか

−岸井さんは、その頃、かかわる方たちから話を聞かれたんですね。

岸井:劇作家は客観的に見るのが仕事だと思うので。
 市原君がアイアンシアターでやったことは、演劇的にはいくつか評価ができると思います。まず日本の民間劇場で、レジデントカンパニーと芸術監督という制度が実質成立し、続いたケースが少ない。アートマネジメントの教科書に出てくるようなことである基礎的な体制であるにも関わらず。次に、商店街の中に劇場があって、それがアーカイブ機能を持っていたこと。街の芸術施設の重要な機能ですが、それもやれているところは少ない。もうひとつ、フェスティバル。こんなこと言うと怒られるかもしれませんけど、日本のアートの世界って、タコつぼ的になりがちだと思うんですが、えだみつ演劇フェスティバルのセレクションは、いろんなタコつぼの人たちを横断的に呼んでいたと思います。
 でもこれは全部演劇側の都合なんです。そんな都合のために会社側が税金や家賃をもってくれてたことは…。

市原:企業メセナのすごい例ですよね。感謝しています。

岸井:僕は、アイアンシアターだけではなく、去年同じようなことが日本中で起きていたと思ってます。今まで仕組みが整わない中、グレーゾーンでやってきたことを整理しなければならない時期だった。
 さっき市原くんから「みんな」という言葉がでました。では、みんなとは誰なんでしょう。たとえば、街の劇場とは、街の人の同意がないとそうは言えないでしょう。同意の仕組みがなかったし、今もないわけです。だから、市原くんも街のみんなに芸術監督に任命されたわけじゃない。すると、何で枝光を代表するような発言をしてるんだと思う人が出てきても当然だということになる。
 もう一つはお金の問題。商店街は、当たり前ですが商売が大事という価値観を持っている人の集まりです。それに対して、家賃も払わずにいるというのは、無法なことをしていると捉えられる。最初はいいけど、ある程度売れてきたときには自主的に家賃を払い出すとか、断られても受け取らせるくらいのことが当然だと思う人は多いと思います。
 社長で、直接収益に結びつかない活動の意義がわかる人も多いわけです。商店街全体を活性化させていかないといけないときに短期的なお金の話だけではないということで共感してくれる。ところが、街の名前を冠した事業をし、新聞に載ったりしているのに、家賃も払っていないのか、と思う人もいる。市原くんがやってた演劇も、いわば商店主ツアー。
 事前に市原くん解任の事情を知ってた人がいたのは、ちょっと難しい問題ですよね。市原くんが2月に聞いたのは事実なんですが、少なくとも1年前からその動きはあったようです。でも、その間に市原くんに小出しに伝えていたという人もいる。

市原:聞いてないと思う。

岸井:確かに、市原くんに何て言ったかを聞いていると、そんな言い方では伝わらないよなー、とは思うんだけど。例えば、最後に解任を申し渡された時も、改善点を言ってくれてるんだなと思いながら聞いてたんでしょ。

市原:最後にというか、2月末の時点でぼくにとっては最初にですよね。では改善します、運営体制変えますねっていう提案をしたんです。

岸井:先方は市原くんに解任の理由を一つ一つ説明した。すると、市原くんはそれを解任の理由と思わず、その一つ一つを現状の問題と捉え、改善点を考えてた。先方としては解任の理由を述べ終え解任と言った。申し渡した側からすると、理由を言っているのに、市原くんが辞めるって言わないのはどうしてだ、みたいな齟齬はあったらしい。その時、市原くんはエエッ突然!? って驚いたんだよね。日本の地域を支えているのは、あうんの呼吸とか、言わないでも伝わる、という腹芸のコミュニケーションですからね。
 あと、新体制をどう組むかという話が見えてから解任しないと無駄になるということもあったみたいね。

市原:それはフェアじゃないし、ギリギリまではっきりさせずに内緒にしておいて、一方的にバッサリ切られたと思ってしまう。

岸井:古臭い人事だなーとは思う。でもそれを否定すると、それこそ地域が回んなくなるとも思う。

市原:でもこれは批判だけではなく、実際に起きたことだから、後に参照されるアーカイブとしても言っておかないといけないと思う。

岸井:改善はした方がいい。しかし、現状の日本の世間においては、まあ、わかる、気をつけなきゃね、という話だと思います。たとえば、街づくりの専門家であれば、途中でその動きに気がつけないのは仕事としては失格といわれても仕方がない。ただ、市原くんは演劇の専門家ですから、気がつけなくてもいいわけですが。
 言えるのは、公共的な性格もあるアート組織のリーダーとか運営体制をどうするかとか、今まで明文化しないでやってきたのを、そろそろはっきりしなきゃいけないところにきたということ。ちょうど改善期に起きたことだと思います。

地域とのつながりをどう持つか

−芸術監督になる時に、契約書を交わしたりはしなかったんですか。

市原:契約というのはしてないですね。こういった体制で運営したいということを承認してもらった。助成金のこともあるので、一事業ごとには書類のやりとりをして、お金に関しても承認は得ていたということなんです。

岸井:2009年当時はそういうものだった。とりあえずやっちゃうしかないし、でないと成果もでなかった。
 貸し館問題もあるね。新体制では劇場運営の経済的な自立を考えている。芸術と関係なく、商売をしている人からみれば、貸し館でお金を回すっていうのはわかりやすいし、それが今までのアイアンシアターからみて後退だといわれても意味不明。そんなの演劇側の都合ですよ。
 あと、地元の劇団からすると、あのくらいの大きさの劇場って一番使いやすいんですよね。彼らからすれば、よくわからないヨソの劇団ばかり呼んで使わせていて、なぜ自分たちの表現の場にしてもらえないのかっていうのも、たぶんあった。

市原:もともとあそこは、僕たちが公演するためにアトリエとしてお借りしていた場所。外側のハードは援助してもらいましたけど、機材などは僕たちの劇団のお金で整備したんです。使用したい場合は、せめて何か月か前に知らせてもらえたらよかったなと思います。劇場事業は一年前には決まってしまいますから。実際にそうやって使用してくれた地元団体もあります。

岸井:フェスティバルなどで市原くんの選ぶ基準はよかったと思うし僕は共感もする。けど、あのラインナップに共感できない地元の演劇人はたくさんいると思う。市原くんは、それでも北九州に紹介するのはこういう人だ、ということを大事だと思ってやってきた。で、それこそが芸術監督の仕事なんだけどね。
 この問題が解決しないのは、芸術表現なんだから、誰かがいいと思うものを基準に選んだ方が質が上がるよという議論が、合意も了解もされてないってこと。

−地元の企画は優先的に採用しようという意識はお持ちだったんですか。

市原:はい。東京から来るとこばかりというのは僕も嫌なんですよ。でも応募がないからどうしようかと思ったんです。運営会議に、地元優先枠を次第に設けていこうという流れを作っていました。そのきっかけとして、マッチングアーティスト制度っていうのを作った。その期間に地元劇団のスケジュールが合わず発表はできないとしても数日でもいいから、発表しに来る団体のクリエーションに混ざりませんか、それを支援します、お金も時間の調整もコーディネートしますというもの。これを利用した人もいるんですよ。地元の人ではないけれど、2012年に鳥公園が来た時の山口の集団:歩行訓練の谷竜一くんや、なんばしすたーずに参加した静岡の俳優の鈴木遥平くんなどです。北九州の若手の人にも直接声をかけたんですけどね…。

−市原さんが国内外を飛び回って地域になじむ時間が減り、何か疎外感が出てきたということでしょうか。

市原:そういった感情は想像できます。でもいっしょに創作を経た人や、地域演劇という限られた範囲で同じ苦労をしている人には、地域から国内外へその創作を発信することの重要性はわかってもらえているのではと思っていました。そういった姿勢に共感を得て、演劇以外のジャンルからの興味と支援をいただくことも増えていました。

岸井:直接のきっかけになったのは、地元のお祭りだって言うよね。お祭りのときに市原くんが韓国で公演していて参加しなかった。もちろんアイアンシアターから祭りに人は出してたんだけど、市原くん本人はいなかったんだよね。

市原:海外との継続的な交流を維持し、韓国の劇場やメディアに枝光を紹介したり、枝光へ韓国の団体を招聘することの方が僕の仕事だと思ったんです。優劣ではなく仕事の種類が違うと思うんですね。そのかわり、日本に残っているのこされ劇場≡の俳優やスタッフはお祭りに参加してもらう。それはもう毎年変わらずやってたことなんです。
 さらに、僕たちのお金で買った平台も照明もパソコンもプロジェクターも、何もかも劇場に置いてこないとならなかったんです。持って出ないように言われて抵抗したんですが、自分たちのものだと証明するように言われたり。

岸井:それは、何で法人で買った物を自分の物だと主張してるんだくらいの気持ちですよね。助成金だって法人でとってるんだから。

市原:助成金の多くは収益を見越したものではなく、パソコンや機材など後に残るものを購入する費用はその枠組みには含まれていません。だから今残っているものは、我々が働いたお金で買ったものだと僕には思えるんですが。

踏み込んでいい領分とは

−そうした体験から何を得て、これからはどういうふうに地域と付き合っていこうと考えておられるんでしょう。

岸井:(小さい声で)付き合わなくていいんじゃないかな…いや、ごめん、僕の個人的な意見です(笑)。
 僕は去年2月に話を聞いて、すぐに市原くんに電話して言った。市原くんは、あの時点で横浜とか他のところからいくつかオファーもあったでしょう。もう枝光は君を必要としなくなったんだからすぐに辞めて横浜へ行けよって。確か電話で1時間くらい説得したんです。そしたら、いやいや、枝光は大事なんですって言ってフェスティバルをやったんだよね。

写真3市原:僕は山口県出身なので、北九州には元々の縁はないんです。何の縁もない場所で、あれだけのものを作れたっていうのは、一緒に作った人がいるってこと。それまで応援いただいた多くの演劇関係者を含め。それは、八百屋だったり蕎麦屋だったり和菓子屋だったりして、僕は演劇屋でね。ほんとに「街」と一緒に作ったんです。そこから引きはがされる。人間ですからそんなことはすぐにはできない。どちらの側も、お互いに心の準備をしながら離れて行かないと。このことを考えると涙が出るって言う地域の協力者もいた。最後に一緒にお茶を飲みながら、いなくなるね、そうだねって話す、そういうエグジットするための時間が必要だと考えましたね。
 そうこうするうちに、どこまでがアーティストの踏み込んでいいところなのか、どこまでが我々に許されている領分なのか、そこには慎重になったと思います。
 そして、始めたなら終わりを考えていなくてはならない。枝光でやってるときには、終わりがあるとは思ってなかった。今はその終わり方にとても興味がある。終わりを作ること込みで拠点形成型・滞在型プロジェクトである。終わりをデザインすることがいかに大事かに気がついた。

岸井:僕がアイアンシアターで、松田正隆さんをお呼びしてのトークを企画した時、市原くんは「死ぬまでいる」「この商店街の墓守をする」って発言してました。僕はそこに引っかかって。すごく重要なことじゃないかって言ったんですよ。

市原:僕は、その人の最期にそばにいるとか、お葬式に出るとか、お墓に手を合わせるとかはなるべくしたい。ずっとべったりはできないけど。

岸井:で、墓守するのかどうかで作品の意味が変わるよと言ったら、藤原ちからくんにくだらないことをいうな、と言われた(笑)。でも、地域の本人が出て、現場で人生を見せる作品をやるときに、その人の葬式に出るか出ないかは作品に影響しますよ。たとえば、僕は、市原くんが墓守としてこの作品をやっていると言ったときに、かなり不謹慎な絵が浮かびました。たとえば、市原くん以外無人の森と化した商店街を、一人でぶつぶついいながら説明して回っている市原くんの姿。そこまでやる面白さと、やらない前提の面白さは違います。
 僕は、どんなに深くかかわっても、その地域の人の葬式には出ません。アーティストのやってはいけないことだと感じているんですね。でも、いいことかどうかはわからない。葬式に出ないのに、そんなに深くかかわるのはおかしいんじゃないかというのもわかります。滞在制作中に、地元の人と仲良くなるなり方は異常なほど濃密です。作品が終わっても、会いにいきたいとはいつも思っています。でもやっぱり、僕にとっては、街は素材愛なんですから、期間限定の付き合いなんだと考えています。倫理の問題として。

−以前、鳥の劇場の中島諒人さんにお話を伺った折、中島さんはここで「死ぬまでやるというのはもう決めている」とおっしゃってました。中島さんは出身地の鳥取に戻られたわけですし、40代で30代の市原さんとは年代も違うので、状況は違うとは思いますけど。鈴木忠志さんも利賀に骨を埋めるご覚悟でしょうね。

写真4岸井:例えば、お寺の住職さんの住職って「住む」「職=仕事」って書く。住んでることが仕事なんですよ。ご近所付き合いをしてお葬式をやって仕事は地域と向き合うってこと。仏教はコミュニティを超える思想を持っているからこそ、コミュニティべったりの人にも役に立つわけでしょ。だけど、コミュニティを超えた知恵としての仏教は、たとえば全国を回ってる遊行僧からもたらされたわけです。住職はコミュニティの論理に従わねば信用されない。で、住職経由で、遊行僧は生活と接続する。
 これからは、地元に根付いて活動するアーティストと、外から来るアーティストに二極化すると思うんです。外から来るけど地域ともつきある人とか、地元に密着しているけど地元に振り回されない人が増えるでしょう。で、両者の分業と協業で、今までよりしたたかな表現が生まれるんだろうなと思います。
 市原くんに、もう枝光はいいよ、あちこち行きなよって言ったのは、君は住職キャラじゃないよってことを言ったつもりだったんですよね。

市原:まさしくその通りですね。最初、自分は“土の民”だと思ってたんですね。離れてみて“風”になった時に、それでも土は耕せると。耕して、期限が来たら作物が実った状態にしてお返しする。2か月ならこう、1年ならこうという、そういうプランが組める。だって4年間やったんですから。自分はそういう“風の民”なんだと思うと、気が楽になりました。

岸井:鈴木忠志さんや中島さんまで話を広げるんであれば、今までは1人で全役やってた部分がある。仕組みより、人付き合いで地域とつながっていたから、街と演劇の関わりは人に依存してた。今でも、これからもそういう面はあるでしょう。しかし同時に、「契約、ちゃんとした方がいいんじゃないですか」「仕組みを整備しましょう」って言えるようになったってことは、地域で芸術活動する基盤が整備され始め、分業ができるようになったってことですよね。市原くんは、その意味で、1人で全役やらなくちゃいけなかった最後の世代だと思いますね。

市原:そうですね。最後に少し。劇場や拠点という「場」自体に公共性を求めると、公共ホールのように公正で平等な運営が必要になります。そして、それが大切なのは明白です。一方、僕のイメージする拠点形成型あるいは滞在型プログラムは、その場に来て作品あるいは時間や空間を浴びる来場者、つまり「ひと」たちにこそ公共性が宿ると信じているところから始まります。限られた地域や小さなコミュニティの今においてもあるいはもっと大きな世界でも、見えないものを可視化/立体化して手渡しができる演劇にこそ可能性を感じています。海外で起こる様々な大事件も、町内で起こる小さな喜怒哀楽も地続きで感じられるような作品やコミュニティプログラムの創作をこれからも目指したい—と、今、そんなことを考えています。

−今日はいろいろなお話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。

(注)
市原さんに関連するワンダーランドの記事一覧:/?s=%E5%B8%82%E5%8E%9F%E5%B9%B9%E4%B9%9F
岸井さんに関連するワンダーランドの記事一覧:/?s=%E5%B2%B8%E4%BA%95%E5%A4%A7%E8%BC%94

【略歴】
市原幹也(いちはら・みきや)
 演出家。劇団のこされ劇場≡主宰。演劇センターF芸術監督。2005年より北九州芸術劇場にて作品を発表。2009年からは商店街に民間劇場を立ち上げ、地域密着型の運営・創作を展開。5年に渡り芸術監督を務めた「えだみつ演劇フェスティバル」の先進的な取り組みは全国や海外からも注目を得る。また、作品が国際的な演劇祭へ招聘される一方で、市民を巻き込んだワークショップやコミュニティプログラムを多数実施。これらの活動が評価され、平成24年度北九州市民文化奨励賞、平成24年度ふくおか地域づくり活動賞奨励賞、平成 25年演劇教育賞を受賞。その後、横浜にも拠点を構えて創作を開始。現代アートの国際展「ヨコハマトリエンナーレ2014」サポーターの年間顧問・講師を務める。
ワンダーランド寄稿一覧:/archives/category/a/ichihara-mikiya/

岸井大輔(きしい・だいすけ)
劇作家。1970年11月生まれ。早稲田大学第一文学部卒。他ジャンルで追求された創作方法による形式化が演劇でも可能かを問う作品を制作している。詳しくはワンダーランド・インタビュー「ぼくの仕事は、集団の取り扱いと形式化です」参照。代表作『P』『potalive』『文』『東京の条件』。2013年、上演を『人間集団を美的に捉えそれに立ち会うこと』と定義した。


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