小劇場演劇の字幕作成現場から

◎翻訳者の密やかな快楽 英文字幕の世界をのぞく
門田美和

依頼を受けたので、小劇場を主とした現代演劇について、翻訳者の立場から、字幕を切り口とした劇評を書いてみようと思います。思いました。思いましたが、翻訳という行為も小劇場演劇の字幕もストライクゾーンのほっそいトピックで、というより小劇場演劇の字幕自体が多くの観客にとって「どうでもいいです」的なアイテムであるため、今回は、そもそも字幕って何? 映画とかの字幕とどう違うの? ということと、その世界を味わっていただくために、小劇場演劇の字幕を実際に作成してみたいと思います。では、行きます。

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elePHANTMoon「ブロークン・セッション」

◎絶望の中の爽快感
 宮本起代子

「ブロークン・セッション」公演チラシどこかの家のダイニングキッチンで、男女が向き合って他愛もない会話をしている。男性はタクシー運転手で(酒巻誉洋)、女性はこの家の主婦らしい(真下かおる)。奥の部屋から微かに呻き声が聞こえ、やがてビニール袋をからだにかぶり、手にもビニールのグローブをした女性(松葉祥子)が現れる。ひと仕事終えた印象だ。ビニール袋もグローブも何かで汚れており、それを慣れた手つきで脱がして受け取る主婦。そのあとから夫らしき男性(永山智啓)が出てきて、「殴るいくら、蹴るいくら、あと剃刀の損傷とタバコの火傷」と会計のようなことを始め、女性は合計金額を支払い、夫はそれをいったん状差しの封筒にしまったあとで、またその金を女性に返す。 その行為が何なのか、奥の部屋には誰がいて何が行われているのかが少しずつ明らかにされていく。いや、もしかしたら自分はもっと早くにわかっていたのかもしれないのだが、考えついたことがあまりに病的で暴力的なために、薄々気づく一方で「まさかそんなことが」と否定しながら舞台に前のめりになっていた。

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燐光群「ハシムラ東郷」

◎研究は創作であってはならないが、創作は研究からも生まれる  松岡智子  チラシを一見しただけでは、坂手洋二作・演出による燐光群の新作だとは気がつかなかった。そして観に行きたいとも思わなかった。白地にあっさりとモノトーン … “燐光群「ハシムラ東郷」” の続きを読む

◎研究は創作であってはならないが、創作は研究からも生まれる
 松岡智子

 チラシを一見しただけでは、坂手洋二作・演出による燐光群の新作だとは気がつかなかった。そして観に行きたいとも思わなかった。白地にあっさりとモノトーンのイラストがあしらわれたチラシは地味だし、「ハシムラ東郷」という題名も地名なのだか人の名前なのだか意味不明。燐光群といえば現実の社会問題を真正面から捉えた、どちらかというと硬派な作風という印象を持っていたが、「百年前、アメリカでもっとも人気のあった日本人を、知っていますか」というキャッチコピーからは、単なる過去の人物の伝記のように思える。全然面白そうに思えなかった。料金も決して安くはないし、おそらく劇評セミナーの課題に挙げられなければ観に行かなかっただろう。でも、観劇が進むにつれ、この作品に立ち会えたことに感謝した。でも、全編夢中になって見入ったというわけではなく、正直なところ、膨大な台詞のシーンに意識が遠のいてしまうこともあった。それなのになぜか、決して良く眠れたからとかではなく、観劇後の気持ちが爽快だった。なんだか「演劇」という表現方法の自由奔放さがとても痛快だったのだ。

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リミニ・プロトコル「Cargo Tokyo-Yokohama」

◎現実と対峙する演劇
松岡智子

2009年12月2日水曜日天気は晴れ。天王洲アイル駅を地上に出て、午後の穏やかな日差しの中、出発地点となる東品川のクリスタルヨットクラブ隣接の駐車場に向かう。運河と東京湾に挟まれた倉庫街は人通りが少なく、空も都心部より広く感じられ、非日常感が増す。受付で公演プログラムと赤い荷札を受け取り、出発時刻の15時近くなってからシンプルな外装の巨大なトラックの荷台に乗り込んだ。

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岡安伸二ユニット「2008年版『BANRYU』蟠龍-いまだ天に昇らざる龍」

◎見事な技を見た、しかし。
宮武葉子

「BANRYU 蟠龍」公演チラシ日本劇作家協会プログラム岡安伸治ユニット公演 2008年版「BANRYU 蟠龍―いまだ天に昇らざる龍―」を観た。93年に劇団世仁下乃一座で初演され、以降、形を変えながら数多く上演されてきた作品ということだが、評者はこれが初見である。

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マレビトの会「PARK CITY」

◎不可視の都市を「観光/感光」する
森山 直人

「PARK CITY」公演チラシ
これまで、松田正隆とマレビトの会の作品については、何度も論じたことがあるにもかかわらず、最新作『PARK CITY』について書こうとすると、まったく未知の演劇作家について、はじめて触れる錯覚に陥りそうになる。8月に山口情報芸術センター(YCAM)で初演され、10月に滋賀県のびわ湖ホールで再演されたこの作品を、実際に見ることのできた東京の観客は、おそらくそれほど多くはなかったかもしれない。マレビトの会の存在自体、東京で本格的に知られるようになったのが、おそらく今年3月にフェスティバル/トーキョー09春で上演された『声紋都市-父への手紙』(初演は伊丹アイホール)以降である、という事情もあるにせよ、それ以上に、この『PARK CITY』という舞台自体、ワンステージあたりの客席数が100席以下に限定された、かなり特殊な上演形態であったということも大きいと思われるからである。

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劇団桃唄309 「死すべき母の石」

◎「東京」の物語。「東京」で暮らす人の物語。
光原百合

「死すべき母の石」公演チラシ最初にお断り(言い訳)を。筆者は好きな劇団の舞台は集中して見ているが、演劇全般にそれほど造詣が深いわけではない。大ファンである劇団の一つ、劇団桃唄309の舞台『死すべき母の石』についてのこの劇評においても、演出の技法や役者の演技についてどこがどう優れているか論じることは難しい。自分が物語作家であるため、あくまで『桃唄309が形作る物語のどういうところが好きか』が主眼の評になることをご容赦いただきたい。

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サスペンデッズ「夜と森のミュンヒハウゼン」

◎鬱蒼とした森の物語 現実との交錯、衝撃と叙情と
三橋 曉

「夜と森のミュンヒハウゼン」公演チラシまるでゲームの話をするみたいだが、三鷹市芸術文化センターの星のホールと聞くと、ついつい攻略法という言葉を思い浮かべてしまう私。素人目にも、この劇場はそれくらい使い難そうだ。そもそもは、市民のサークルや生涯学習の発表を念頭において設計されたのだろう、ゆったりとした座席と舞台の配置になっているが、しかし小さなお芝居をやるには、その空間が無駄に広過ぎるのだ。

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南河内万歳一座「S高原から」 青年団プロジェクト公演「青木さん家の奥さん」

◎俳優の役割や魅力とは 青年団・南河内万歳一座共同企画
水牛健太郎

青年団・南河内万歳一座共同企画公演チラシ芝居にかかわる人間は数多いが、私たちが舞台の上に見出すのは役者だけだ。当然のことではあるが、しかしそれが再確認される時点で、既にそれ以外の人たちが舞台の隠れた「主役」となっている事態を示唆しているといえる。演劇の設計図を書く劇作家、そしてそれを舞台の上に実現していく上で、主導権を握る演出家。ことに日本では「作・演出」という形で両者を兼ねるのが、小劇場を中心に一般的な形式になっている。何よりもまず、「作・演出」個人の作品として、芝居が理解されているゆえんだ。

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DULL-COLORED POP「ショート7」

◎エロチシズムの上で弾けるポップコーンのように
三橋 曉

「ショート7」公演チラシ人は見かけによらぬものだし、必ずしも名が体を表すわけではない。そんなことは百も承知なのに、ついつい抱いてしまうのが先入観というやつだ。
しかし、これを必ずしも悪癖と決めつけるわけにはいかない。というのも、先入観がいい意味で裏切られたとき、そこには少なからず驚きの快感があるからだ。そして、いやます快感は、自ずと好奇心へと繋がっていく。のっけから個人的な話で恐縮だが、DULL-COLORED POPへのわたしの興味は、まさにそのケースなのだ。

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