突劇金魚「ビリビリ HAPPY」

◎サリngROCK の優美な凶暴さ
岡野宏文

「ビリビリ HAPPY」公演チラシ今年も、年間の最低映画に贈られるゴールデン・ラズベリー賞が決まった。めでたく受賞してくれたのは「トランスフォーマー/リベンジ」であるが、なにより油断できない気にさせるのは、この映画が「当たった」という畏るべき事態である。巨大なレゴ・ブロックのごときロボットたちが、せわしくパーツを組み替えながらめまぐるしく変身してみせる、というか変身してみせるだけのこの映画は、映画を観ているというよりグラフィック・アプリケーションのデモ画面を見せられているような、侘びしくも場違いな気分を我々に味あわせる。にもかかわらず、その退屈を求めて映画館に人は詰めかけたのだ。世の中はまだからくりの手の内がすっかり透けた玩具がお気に入りらしい。2012年など飛んでもない。まだまだ人類は滅べまい。
久しぶりに、素晴らしくヘンテコなオモチャと出くわした悦びも持った。しなやかな筐体からいくつもの手足や頭が生えているくせに、どれを触るとどれが動くか想像のそとなのである。これにふれると……エッこっちが動くの! だったらこれだと……エエッなんでそれよ!とすこぶる振りまわされる観劇体験。突劇金魚の「ビリビリ HAPPY」、サリngROCK 作・演出である。

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OM-2 「作品No.7」

◎身体に降り注ぐ言葉の雨
芦沢みどり

「作品No.7」公演チラシ日暮里シアターアーツ/フェスティバル(2.12-3.21)参加作品の『作品No.7』を観て、再び舞台表現における<言葉と身体>について考えさせられた。再び、というのは5年前にこの集団の作品として初めて観た『ハムレットマシーン』によって、舞台表現の根幹である(と思われる)<言葉と身体>の問題を考えるうえで大いに刺戟を受けたからだ。それはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」を上演することの意味と正面から向き合った作品だったが、その中で佐々木敦という若い肥満体の俳優が、金属バットを振り回してテレビやテープデッキ、机を次々に叩き壊すシーンがあった。そのナマの破壊力はすさまじく、客席にいて背筋が寒くなるような怖さを覚えたものだが、同時に、彼の身体から発する負のエネルギーが、経済弱者へと追いやられた現代日本の若者層の鬱屈や怒りとダブって見えた。そして破壊シーンは痛ましくも共感できるものに変わっていた。セリフがない分、それは直接的だった。

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快快「インコは黒猫を探す」

◎「微分化」された日常を映す
今井克佳

「インコは黒猫を探す」公演チラシ1月下旬、三軒茶屋のシアタートラムにて、「シアタートラム ネクストジェネレーションvol.2」として、三つのカンパニーによる公演が行われた。幸いにも、三作をすべて見ることができた。それぞれに興味深かったのだが、今回は最初に見た、快快の「インコは黒猫を探す」について語りたいと思う。他の二作については機会があれば補遺として書き継ぎたい。

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ガールズ・トーク「4.48 サイコシス」(サラ・ケイン作、飴屋法水演出)

これまで何回か掲載した「鼎談」企画の復活第一弾として、座談会をお届けします。取り上げるのはフェスティバル/トーキョーで大きな話題を呼んだ「4.48 サイコシス」(作:サラ・ケイン、演出:飴屋法水)。イギリスの女性劇作家の作品を、4人の女性に思う存分語っていただく趣向です。題して「ガールズ・トーク『4.48 サイコシス』」。次々飛び出す目から鱗の発言にご注目あれ。

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大型影絵芝居「スバエク・トム」(カンボジア)

◎驚き、不思議、カンボジア 影絵芝居で神に逢う
岡野宏文

「スバエク・トム」公演チラシまだかなりわたしがコマかったころ、全校生徒を講堂に呼び集めて人形劇を見せたりする恐ろしいたくらみがたびたびあった。ものは糸あやつりである。演目はたいてい「アラジンと魔法のランプ」とか「イワンのバカ」とか、「肉体の門」なんかはなかなか来ないのであるが、まあまあ見てやってもいいかなというレベルのお題ではあるので、おとなしく腰を下ろすのであった。腰を下ろさないあまたのご学友たちは、上履きをぶつけ合っちゃ奇声を上げるという華やかないとなみにすっかりご執心であられ、実に幸せそうに見えた。人の幸せをむげにひねりつぶすこともあるまいにと思うものの、無慈悲な教師たちに頭などはたかれて彼らの幸福は泡とはじけていくのだった。

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タカハ劇団「モロトフカクテル」

◎時代を超える翼をください
大泉尚子

「モロトフカクテル」公演チラシ客入れの音楽はフォークソング。「あれっ、これってPPMの『花はどこへ行った』かな?」なんて思いながら、60-70 年代の回顧ものかと想像を巡らす。
舞台は、広めでやや雑然とした部屋。中央にストーブ、上手に長めのテーブルとイス、下手の赤いソファには、熊のぬいぐるみがポツンと置かれ、その前にあるのはキーボードだろうか。後ろの壁には棚があり、ゴチャゴチャといろんなものが詰め込まれている。家具は、そこそこ簡素というか間に合わせ的な感じがあり、ここが住まいやお固い業種のオフィスなどではないことをうかがわせる。壁沿いにつけられた数段の階段の上にはドアがあるから、もしかしたら半地下なのかもしれない。と、ここまではとても具象的な装置なのだが、背面の大きな壁は全く趣が違う。幾何学的な模様が描かれた、かなりの面積の壁面が、そそり立つようにある。白っぽいグレーを基調とした色合いの、小洒落てアート風な雰囲気。
両者の対照に、幕開け前から、この芝居のリアリズム加減がいかほどのものなのかと、興味をそそられる道具立てである。

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唐組「盲導犬」

◎テント通いはとまらない
岡野宏文

「盲導犬」公演チラシこういう歌がございます。

猫を娶らば 才長けて 見目麗しく 情けある
犬を選ばば 書を読みて 六分の狭義 四分の熱

猫は美の生き物だから存在が本質なんであります。犬は情の生物ゆえに本くらい読まないとダメなのですね。
片方で犬のやつは、人類の最古にして最良の友と呼ばれたりしますが、奇妙なことにもう片方では犬なる文字のついた言葉にろくな手合いがないのであります。犬死に、犬ざむらい、犬畜生(なんと理を知らぬケダモノの代表選手)、負け犬などなど、犬儒派なんてのもあったっけ。

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野田秀樹芸術監督就任記念プログラム「ザ・ダイバー」(日本バージョン)

◎想像力喚起する魅力 より「現代的」な日本版
今井克佳

「ザ・ダイバー」(日本バージョン)公演チラシロンドンのSoho Theatreの客席は、上下の段差が大きいせいか、暗い穴蔵のような印象だった。一年少し前、そこでキャサリン・ハンターと野田が出演して、ロンドン版The Diverが約一ヶ月上演された。当時ロンドンに滞在していた私は何度も劇場に通いつめ、野田秀樹がロンドンではいまだに「アウェイ」の風にさらされていることを思い知らされた。

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shelf 「Little Eyolf-ちいさなエイヨルフ-」

◎その囁きは水底から響いてきたようにも思えた
大泉尚子

「Little Eyolf-ちいさなエイヨルフ-」公演チラシJR埼京線・板橋の駅を降り、歩くこと10分。まさかここじゃあないよなあ…というくらいの細っこい路地を折れた、行き止まりのどん詰まり。東武東上線の線路の柵が立ち塞がり、目の前を轟音を立てて電車が走り過ぎていく、その脇。劇場というよりは、駆け落ち(って死語かもしれないけれど…)した二人がひっそりと隠れ棲むのにふさわしいような、そんな場所にこのatelier SENTIOはある。どうか見つけないでくださいと言わんばかりに。そこで行われているSENTIBAL!2009の参加作品として、shelfの「Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―」(イプセン作、矢野靖人演出)が上演されていたのだった。

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TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎それが露わにされるとき
大泉尚子

TAGTASプロジェクト公演チラシ前衛=アバンギャルドという言葉をとんと聞かなくなって久しい。こないだ若い人に暗黒舞踏の説明をしようとして、「前衛的な踊り…」と言いかけて思わず赤面してしまい、あわてて「当時は前衛的と言われた踊り…」と言い直した。何か、口にするだけでもちょっと気恥ずかしい感じがするんだけど、それって私だけでしょうか?

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